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生き方・価値観の私的見解

尊敬する人って必要?別にいなくてもいいんじゃないという話

生き方・価値観の私的見解

こんにちは。もりこねです。

「尊敬する人は誰ですか?」

新卒の就職面接などで、こんなことを聞かれた方も多いと思います。

そして、最近のビジネスの場においては、ロールモデルの必要性を国(厚生労働省)が掲げているようですが、そういった尊敬する人とかロールモデルになるような人はいますか?

私のこたえは、「いない」です。(←いきなり切り捨てる感じになっちゃいましたが)

いや、正しくは「特定の人がいない」になります。

これはあくまで私個人の考えなのですが、こういった尊敬する人のたぐいは、目標や指針、励みになっていいのでしょうが、必ずしもいなきゃいけないわけでもなく、なんならいなくてもいいんじゃないかと思っているくらいなのです。

その理由を、これからお伝えしていきます。

かなり偏ったあまのじゃくな意見をぶっ放すかもしれませんが、こんな考え方をする変な人もいるんだな~くらいの軽い気持ちでお読みいただければ幸いです。

そして、もし「尊敬する人やロールモデルがいない」と悩んでいる方がいらっしゃれば、少しは解決の手がかりがつかめるかも?しれませんよ。

なぜ尊敬する人やロールモデルが必要ないと思うのか

私にとって尊敬する人やロールモデルのたぐいは、これまでおそらく皆無だったんじゃないかと思います。(いると思い込んでいたのはありますが)

ちなみに、ロールモデルとはコチラです↓

ロールモデル

自分にとって、具体的な行動や考え方の模範となる人のこと

「コトバンク」より引用

新卒の就職面接で聞かれた時には、一応「親」なんて答えていましたが、育ててくれたことに感謝はすれども、正直尊敬まではしてません。

「なんて冷たい人!」「なんて寂しい人~」なんて批判殺到(!?)かもしれませんが、それでも自分なりに幸せに生きていますし、人間関係などで大問題があるなどの不都合を感じたこともありません。

そして、これからも尊敬する人のたぐいは、今のところ特に必要ないと思っています。

その理由は、次のとおりです。

  1. 「人」も大事だが「言動」にも注視している
  2. 「特定の人」だと執着・依存・盲信してしまう可能性がある
  3. 「他人」にはなれないから自分の個性を極めた方がいい
  4. 自分以外はすべて「先生」である

尊敬する人やロールモデルについて、否定も批判もするつもりはもちろんありません。

人や組織によっては必要でしょうし、私なども仕事を覚える時は、まずは先輩方からノウハウを真似ることからはじめていました。

なので、いい部分もあることは承知のうえで、あくまで「今の私にとっては」必要ないということを申し上げたいだけですので、どうかご理解くださいませ。

「人」も大事だが「言動」にも注視している

尊敬する人はいないと申し上げてはいますが、正確には「特定の人」はいないという意味になります。

なので、尊敬する誰か特定の人はいないけれども、言葉や行動に対して、これはすばらしいと尊敬の念を抱いたり、感銘を受けたりということは多々あるのです。

私が注視しているのは・・・

「誰が言っているのか」も大切だが「何を言っているのか」「何をやっているのか」「どんなふるまいをしているのか」も大切

そして、この言葉や行動の意図はなんだろう?なんてことも考えたりして、自分の中でハラ落ちすれば、その時点では、信用したり活用させてもらったりという感じです。

それは、歴史上の人物だとか、スゴイ偉業を成し遂げた人だとかいう著名人だけの言動ではありません。

名もなき人から放たれる言葉やふるまいの方が、かえって心に刺さるものがあります。

名もなき人としてしまうのは申し訳ないのですが、例えば、ある日たまたま目にしたブログの言葉で元気づけられたり、涙を流したこともあります。

公務員時代に、どうしようもなく仕事ができないと言われていた(!)ある職員からの一言に、はっと気づかされることもありました。私にはとうてい思いつかないような発想をしたその職員に、感服したこともあります。

逆に、ここ最近、個人的にこれまですばらしいと思っていた著名人の言動に、違和感を覚える出来事もありました。

人の言動には、私には計り知れないその人なりの生き様や背景があってのことでしょうが、他人である私がそこを深く追求することはなかなか困難です。

なので、地位や名声、資格の有無、有名無名にかかわらず、「何を言っているのか」「何をやっているのか」「どんなふるまいをしているのか」が自分にとってしっくりくるのかどうかを大事にしたいと、今は思っているのです。

特定の人に執着・依存してしまう可能性が

尊敬の度合いにもよるのでしょうが、例えば尊敬しているその人が、これまでと全く真逆の言動を取ったり、歴史上の尊敬する人物が定説とは真逆になった際に、人の心理はどうなるのかなと、今回この記事を書くにあたって少しだけ考えてみました。

例えにするのに少しためらいがありますが・・・

・ 一部のYouTube番組のコメント欄などでは、そのYouTuberに対するファンを通り越した執着や依存、盲信?洗脳???と感じてしまうような言葉も見受けられる。

・逆に、これまでと言ってることがまったく違うとわかると、それを機に一気にファンが減る(チャンネル登録解除やバッドボタン)という事態が生じている。

これはあくまで、私個人が勝手に感じていることですので、間違いはおおいにあることは承知しているつもりです。

いずれにしても、その「特定の人」によって、自分の感情が大きく揺さぶられているということだと思います。(あくまで私の勝手な推測ですし、それがいいとか悪いといっているわけではありません)

私は昔からあまのじゃくなので、「みんながいい」といっている人やモノやコトについては、「本当にそうなのか?」「何か裏があるんじゃない?」とはじめにちょっと勘ぐってしまったり、そもそもあまり興味をもてないという、かなりひねくれたやつでした。

こんな内容を記事にするくらいなので、おわかりだと思います(苦笑)。

特に「人」については、実はあまり信用しすぎないようにしています。

それは、裏切られた時のショックを少しでも和らげたいという思いもありますが、自分の本心・本音から遠ざかってしまう可能性があると思っているからなのです。

自分では気づかないうちに精神的に依存してしまい、その人と同じ生き方を自分も歩みたい、歩まなきゃといけないと思ってしまうのです。

これに関する私のエピソードを記していきます。

【尊敬する人エピソード】

・「この人はすごい」と多くの人が尊敬している、ある著名人がいた。

・その方の講義などを何度も聞く機会があり、周りのみんなは、「とてもいいことを言っている」「その先生のとおりのやっていれば間違いない」というが、私は何度聞いてもどうしても心に響かなかった。

・そして、その正直な気持ちを、周りのみんなに言えるような雰囲気ではなかった。

・その人を尊敬できない自分が、どこかおかしいのかと思っていた。

・表向きは私も周りに合わせていたが、違和感バリバリが自分の中で限界となり、そのうち距離を置くようになった→今は関わっていない

・後でわかったことは、私と同じように感じている人がほかにもいて、その著名人や団体から離れる人が増えているということだった。

上記の著名人を否定しているわけではなく、「みんな」がいいという人モノコトは、自分もいいとは限らないということを、いいたかったのです。

だから、無理して「みんな」に合わせなくてもいい。

「みんな」と自分の感覚が違っていても、自分がおかしいなんて思わなくてもいいし、逆に自分のその感覚を大事にした方がいいんじゃないかということを、いいたかっただけなのです。

歴史上の人物や著名な学者や政治家、作家、ミュージシャン、有名YouTuber?など、影響力のある人の言動には、人を惹きつける力があります。

もちろん、そこまで上り詰めるような方々ですから、尊敬できるような言動やふるまいをされていることもあり、プロモーションも上手なので、影響を受けたり参考にさせてもらうこともたくさんあります。

でも、それはあくまでその人の表向きやごくごく一部分であり、その方の生き方すべてをお手本にしているわけではありません。

どんなにすばらしい(ようにみえる)人でも、結局は人間ですから完璧じゃないし、人は変わっていくものですから、いい教材として目安や参考程度にとどめておきたいと思っています。

他人にはなれないから自分の個性を極めた方がいい

人を尊敬できることは、すばらしいことだと思います。

そして、ビジネスの場においては、ロールモデルとかメンターといわれる人がいると指針となり得ます。

私のように、尊敬する人がいない人の特徴として、プライドが高いとか、謙虚さがないとか、自分に自信がある・・・なんて分析されてしまうようです。

たしかに、今の私は、自信こそないにしても、無駄に変なプライドが高いことは認めますし、傲慢です(笑)。

それでも私が、尊敬する人は特に必要ないと思うのは・・・

その人になりたくても絶対になれないことがわかっているから

一人ももれなく違う個性をもって生まれてきている(はずな)ので、その人になれなくて当たり前だし、なる必要もない

ロマンもへったくれもないでしょうかね(笑)。

「この人に近づきたい」「この人みたいになりたい」という気持ちにより、生き方や働き方が前向きになるきっかけとなったり、その人からコツやヒントをもらったりという効用があるのは認めます。

ただ、繰り返しになりますが、その尊敬する人はあくまで目安や参考程度にとどめておいて、それよりも自分しかない個性を極めていった方がいいというのが、今の私の結論です。

もちろん、この人のこの部分は学べるとか、この人のこの言動で元気や勇気をもらえたなどということがこれまでもたくさんありましたので、こういった心持ちは今後も変わらないと思います。

自分以外はすべて先生である

「我以外皆我師(われいがいみなわがし)」という、吉川英治氏の有名な言葉があります。

この言葉は、数年前に仕事をご一緒した人から教えてもらいました。

自分以外の人やモノなどのすべてが、自分に何かを教えてくれる先生だという意味だそうです。

その方のモットーとしているようでしたが、誰か特定の人を尊敬するのはしっくりこない私にとって、この言葉はとても腑に落ちました。

そして、私はこの言葉を、こんなふうに解釈しました。

そもそもすべての人やモノコトなどには善悪や優劣はない

・そして、自分にとっての善悪や優劣があったとしても、どれもすべて師となる(反面教師がいい例)

吉川氏が、どんな意味合いや背景でこの言葉を編み出したかは勉強不足で定かではありません。

ただ、解釈の仕方は人それぞれだし、結局は自分に都合よく、自分が機嫌よくいられるのであればそれでいいと思っているのです。(吉川氏にとっては不本意かもしれませんが)

ここで話が変わってしまいますが、もし尊敬する人は?と質問をされた際には、この「 我以外皆我師(われいがいみなわがし)」 を盛り込んでみるのも、ひとつアリかと思いました。

過去の就職面接で、尊敬する人は?という直球質問ではなかったものの、人間関係にまつわる質問があったので、とっさにこの言葉を例に出して答えたことがあります。それが理由かどうかはわかりませんが、結果は合格しています。

ただし、突っ込まれることを想定してそれ相応の準備しておくことと、あくまでも自己責任でお願いします(笑)。

おわりに

尊敬する人やロールモデルは特に必要なんじゃないでしょうか?ということについて、持論満載(!)でお届けしました。

調子に乗って飛躍した発言があったり、語彙力がないので誤解を招くような表現もあったかもしれません。

なにもそこまで考えなくても・・・という声も聞こえてきそうです(苦笑)。

今回伝えたかったことを、以下のとおりまとめてみます。

  • 尊敬できる「人」よりも、「何を言っているのか」「何をやっているのか」「どんなふるまいをしているのか」に注視したい
  • 尊敬する人に執着や依存してしまい、自分の本心・本音から遠ざかる可能性がある。(それがいいのであればいい)
  • どんなに尊敬する人になりたくてもその人にはなれないのだから、自分の個性を極めた方がいい。
  • 自分ではない人モノコトのすべてが師であると思えば、起こる出来事すべてに感謝できる。
  • 尊敬する人がいないことは、おかしなことじゃない。

ありがとうございました。

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もりこね

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